昭和54年11月06日 朝の御理解
御理解 第29節
「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」
信心辛抱梅の花というふうにここでは言われますが、普通非常に辛抱力の強い人、いわば努力する人努力家肌の人と、またそれとは反対の人、何とはなしにこう桜の花のような華やかな、それで物事にこう飽くというかパッと散ってしまう。えらいこう一生懸命にやっておるかと思うとすっとしてしまうと、言う様な人があります。だからそういう性格じゃないですね。
ここで言われるのは、結局信心辛抱の事であって、性格は桜の花のような信心、心であっても事信心になると、それを貫くというか辛抱するという人もありますね。普通の事は辛抱出来なくても、事信心の事だけには貫くとか辛抱すると言う様なタイプの人。非常に努力家であり、ま辛抱強い人であっても、事信心になると、只何かある時だけ一生懸命になるけども、もうおかげを頂くと後はすうっとしてしまうと言う様な人もあります。だからその人間的な辛抱強いとか、辛抱力がないとかではないようです。
これはもう第一に私がそうです。私はもう辛抱力がないです。どっちかちゅうとやっぱ華やかな方です。桜の花のタイプです。いうなら昔から、何とはなしに派手な事が好きだったし、そして辛抱力はないしというような、まぁ普通人間的にはつまらない、取り柄のない私でございましたけれども、事、信心神様という事になったら、こう何か一つの執念のようなものが段々出来てきたように思います。
それがどこからそういう事になってきたかと言うと、ま結局は自分の無力さ加減というか、もう自分は何をしても、辛抱力はないし頭は悪いし何も人並みの事は出来んから。もうこれは神様なっとおすがりせな出来るこっじゃない、という思い込みが誰よりも強かったんじゃないかと自分で思います。そこからです。私は桜のような性格だけども、辛抱力が出来てきた。こと信心の事に限ってだけは辛抱力が出来てきた。そこで性格のいうなら桜の花的な、いうならおかげにもなってまいりますし。
そして梅の花のような辛抱力もだんだんついてきたと。そこに私は私の信心の、まぁ取り柄があったんだというふうに思うです。
その上どっちかと言うとふうたらぬくい、いうならば右向いとけち言うたら「ハイ」と言うて右向いとるような、これは子供の時からでした。もうイヤとは言い切らんとです。だから大人は、それはうちのこれはとても素直と言うて、まぁ言うておりました。素直でもないですけれども、イヤとは言い切らんのです。私の隣の叔父なんかは大変可愛いがってくれましたが、そのなぜ可愛いがるかと言うと、もう言う事を聞くからです。もうイヤとは言い切らん。
もう腰を打ってくれち言うと腰を打つ。もうとにかくそして気持ちのよかもんやんけん、ちゃんと眠ってしまってるわけです。そすと私の婆が出て来てから、あの増太郎と言ってましたから、もう増たんばっかりはもうこげなこまか子供にいつまっでん揉ませちから、と言うちから言いよりました。あら眠ってしもうとったと叔父が言う。もう眠ったけん手を引ききらんとですよね。やっぱりイヤと言い切らん。もうそれこそ泣く泣くでも腰を打ってる。
ならお客さんやら見えると、これは隣の甥ですがもうとにかく私が言うこつなら、どげなこっでん聞くけんでと言うて、そのそれを自慢にね。そこに例えば寝れとで手を腹の上にあげちから、ちゃんと寝とけと言うとね、それをもうよかち言うまでは寝とるわけです。そして眠ってしまうような事もあった。まぁ四つ五つ位の時分じゃなかったでしょうか。もうそげん、まいうならばふうたらぬくかった。それを大人達はうちの甥はうちの孫は素直だというふうに申しました。
私と神様との関わり合いが、だんだん深くなるにしたがって、神様はやっぱり、私にそういうそれこそ右に行け左に行け。そしてまた右に行け。今行ったばかりじゃないですかとは言い切らなかった。それこそ泣く泣くでもやはり、神様の仰せ通りにさせて頂いておるうちに、今日の合楽のいうなら元が出来た。それを私は、[梅の薫りを桜にもたせしだれ柳に咲かせたい。]とそういうものが、まぁ私の人間形成というでしょうか、自然にに出来てきた。
桜の花は自分の手持ちである。これは生まれつきである。何とはなしに華やかなものがある。それに辛抱力はなかったけれども、他の事は辛抱しきらんけれども、なら、事、信心に限ってだけは、やはり一つの執念のような辛抱力が段々出来てきた。まぁそこに鬼に金棒という事になってきた。そのうえ馬鹿のごと素直である。まぁ馬鹿のごとというか、もう馬鹿と同じ事です。
昨日、一昨日でしたか、南八幡の教会の三十年の記念祭であった。もうあそこは朝鮮のだいたい教会長は方なんですけれども、人がどんどん助かってきた。それで甘木の平田さんがもう殆どあそこへ行って信者の教導をされた。だから南八幡としては恩人である。それであそこから記念祭に今度平田繁吉翁という、こういう「平田繁吉翁の信心」というこんな立派な御本が出来ておる。
平田さんの話された事をこれに載せてある。その平田さんが言うておられるんですけれども、これはもう私の前で言いよんなさいました。大変ま合楽に帰依をして亡くなられる二、三年なもう、ここに見えてもうちょっとやそっとで帰ろうとしなさらん。もう帰る時には行って来ます、ち言うて帰りよんなさいました。くらいにま合楽にだんだん帰依をされた方でしたけれども。
人が助かるという事は、人間がちいった馬鹿んごたるふうのところが助かるですばいち、ここん先生どんがやっぱ、そうでしょうが、ち言うて私を指して言いよんなさいました。そげんところが私にはあるわけです。利口者のごたるかと思うと、馬鹿んごたるとこがあるわけです。そういう事が災いしてではなくて、それが幸いしたわけです。なら今の私の孫達に、いくら言う事聞くからと言って、さぁおじいちゃんがよかち言うまでそけ寝とけち、言うたって寝る孫は一人もおりゃしませんよ。
何かやるけんでと言うても、もろたら直ぐ起き上がるでしょう。もう本当にあの底の抜けた馬鹿のようなところが、まぁ私にはある。それを私は柳のような素直さだと言う風に、[梅の薫りを桜にもたせしだれ柳に咲かせたい]。この三つが足ろうたところに今日の合楽があるのです。性格は桜の花のような人だから、信心も桜の花のようなんかというとそうではない。
性格性根の中には、桜の花のようなものがあるから、神様は何とはなしに、いわゆる桜の花的なおかげが合楽の場合は、非常に人が羨むように華やかであります。もう御大祭ども拝ませてもらうと、もう今迄かってどこにも見た事がないように華やかです。豪華です。中味はないにしても、そういう働きがここでは起こってきます。それに辛抱力があったらさぞよかろう、いうその辛抱力が出来たわけです。他の事では辛抱しきらんけども、ならこと信心だけには辛抱力が出けた。辛抱した。辛抱し貫いた。
その上どことはなしに馬鹿んごたる素直さがある。この三つが足ろうたところに合楽の御比礼があると私は思います。今の歌の文句と同じ事です。ですからね、皆さんもやっぱりそういう生き方というものを身に付けなさらねば駄目です。どんなに人間的に立派であるとか辛抱力が強いとかと言うても、信心の上の辛抱力、信心で言ういうならば素直さと言った様なものが足ろうてこなければ、本当のいわゆる足ろうたおかげ、いつも申しますように、合楽のおかげは足ろうておる。
だからなら皆さんとてもやっぱり足ろうたおかげを頂きたいでしょう。お金はあるばってん病気である。健康ではあるけれども、お金はいつもない。と言った様な不釣合いの事ではなくて、足ろわなきゃならない為に、これはやはりそれこそ末永先生、壱岐の末永先生じゃないけれども、師匠の真似をする他はない、というふうに言われるんです。だから形からでも、それがそういう真似が出来てくるようにだんだんなってくるところに、だんだん本当なものにも触れていく事が出来るんです。
そこでです。なら今日は梅の花の信心をせよと仰る、辛抱力という事なんですけれども、どう言う訳になら他の事は辛抱出来んかったけれども、神様の事だけ事、」信心の事だけにはそれこそ執念を燃やすように、いうならば執念深い位に、神様神様という事になってきた。人が一の信心する時には二の信心せなならん。人が一時間で御祈念する時には二時間御祈念せにゃならん。もう今行ったばかりじゃけん、もう寄らんでんよかじゃんのと言うても教会の前を素通りはしきらなかった、と言う様にです。
そういう、いうならば人とは少し違った信心が出来た。その少しが、私は信心は大切なところだとこう思うです。昨日は壮年部会で、一人一人の素晴らしいお話を聞かせてもらいましたが、中に安東さんが発表しておられました。先日のあそこの共励会の時に、もう皆さんが帰られた後ですから、もう十一時もう過ぎた時間じゃないでしょうか。皆さんいつも帰って来るのは十二時位ですから。もう帰られた後で家族の者が皆また集まって信心共励をした、という話をしておられました。
どういう共励をしたかというと、合楽ではもう着々としてあのように御造営が成就しつつある。それに安東一家の上では、本当に何も出来ておらんが、これではいよいよ相済まん事だから、一家を挙げて一つ工夫をさしてもろうて、合楽建設のお役に立たせてもらおうじゃないか、という話を一家中でさせて頂いた。自分達夫婦息子達夫婦、それに娘婿の嘉朗さんも見えとったそうですから、それに嘉朗さん達夫婦もそれに参加して、その話に遅うからでしたけれども。
ま、弾んだという話をわたし聞かせて頂きながら、素晴らしいなぁと思いました。家族中でね、その事に取り組まれるという事。その事に家族中で誰も反対もなくて、本当にそうですなと、そこに思いが一つになれれるという事。親父は思うとっても家内は袖引っ張るような事を言う。息子がそげんせんでもよかじゃんのと、言う様な事になりかねない所もあります。けども家族中がです。
出来る出けんは別として、とにかくお互いが一つ工夫をさしてもろうて、何とかお役に立とうじゃないかと一家中で、いうならば話し合いが出来るという事は、私はとても素晴らしい事だと思います。家族の上にね。昨日はまぁいうならば有り難い、または嬉しいお取次をいくつもさせて頂いた。そこの合楽食堂の中村さんが、もう本当に合楽示現活動、私共は家にばっかりおって出来ませんけれども。
家に来るお客さんお客さんが、あそこにおかげの泉とか合楽新聞を置いておりますと、それ見てからあら、あそこの金光様にはえらい御造営、その大きな家が建ちよるなと言われると、そこから信心の話をさせて貰いますと、もうそれこそ聞く人が目を丸うして聞きます。ほうそげなこつのとこれはやっぱ信心はせにゃいかんのと。これは貰うて行ってもよかのというふうにして、その示現活動が出来るとこう言うておられます。示現活動というのは、必ずお導きをせんならんという事じゃないと思うですね。
まぁ分かり易くいうなら、一生懸命に合楽の事を宣伝するという事だと思いますね。十人宣伝して、その中に一人でもならお参りすると言う様になれば、いよいよ実を結ぶわけですから、それは有難い事ですけれども、そんなら誰もお話はしてもお参りしてこなくてもです、自分自身の力は一生懸命ついておる時です。これは間違いないです。信心のお話をする時には、心が瑞々しい生き生きとしておる時でなからなければ、話せるものではないです。ですからそういう、いうならば精進努力をするからです。
もういっときは合楽示現活動に参画という事をまぁ言うて、もう皆いうならば、一応は自分の周囲の方達に一生懸命話した、伝えたという事を聞きましたけれども、最近それを聞かなくなった。もう話したっちゃ参りなさらんけん。参りなさるとか参りなさらんじゃない。こういう所にです私は一つのいうならば、この辛抱力というものが必要ではなかろうかとこう思います。それには生き生きとした瑞々しい心、というものがなからなければ出来ない。昨日ある人が毎月、月初めに御造営費をお供えなさいま。
昨日その持って参拝されてから、親先生私はこうやって、もうやんがて小一年も続けておられるでしょうか。もうこの御造営のお供えをさし参拝されてからて頂く時だけはです。も本当に自分のいうならばめぐりのお取払いを頂いておる、御粗末御無礼が許されておる。この実感で大変嬉しいというお届けをされました。だからそれは本当に有り難いですねと。また事実そうですよ。これはね信心の例えばめぐりのお取払い。
例えばこれが金銭で言えば百万円のめぐりを持っておる人が、いうなら神様に対して百万円の借金払いをする時には、もう必ず百万円の貯金が出来ておるのが信心です。これはもう私がそれを実感しております。もうあれ程しの難儀から難儀の、終わったと途端に人が助かり出しとるでしょうがね。徳の貯金が出来ておったらどんなに引き出しても、後は今日でもどれだけ引き出してもという、そのおかげが頂けとるとです。
信心の借金払いというものは、借金払いが出来た時点で、もう借金を支払うただけの、いうなら貯金が出来ておるという事。ひょっとするとそれ以上かも知れないという事。いつまっでもダラダラと難儀が続く。本気でその元を絶たせてもらう。めぐりのお取払いにかからせてもらう。いわゆる天地への借金払い、天地への還元を本気で潔うさせて頂く。そこからです、はぁ惜しかついて行こうごたる、というものじゃなくてです。
今私が。昨日お届けさせて頂いた方のようにね。これをお供えさせて頂く時には、他のどういう時よりもいわば有り難い。借金払いが出来ておるような思いです確かに借金払いですよ。けれども有り難いですよ。この借金払いがすんだ時には、もうそれだけの貯金が出来ておるですよ。不思議な事です之が普通であったら借金払いがようやく出来た。さぁ是から貯めちいかなんというでしょう。
もうこれから貯めちいかなんじゃなくて、もう借金払いが済んだ時点で出来ておるという事。そこでこれは本当言うとめぐりではなかったな、力を下さろうとする神様の働きであったな、という事に難儀というものはなります。だから開けて見れば愛であり、一切神愛という事になるわけです。私がそういう事を分かり得、悟り得たという事もです、これがおかげを頂かなければならんからだけの信心であったら、こんな素晴らしい事は分かってなかったと思うです。
私のまぁ幸か不幸かいうならば、まぁいうなら辛抱力のない私、も本当にだらしない位に、ま馬鹿んごたるまぁ良う言えば素直、悪う言えば馬鹿と言う様な性格というものがです。信心によって見事生きてきた。そして嘘のような、それこそそれこそ梅の薫りを桜にもたせる事が出来た。しかもそれをしだれ柳に咲かせる事が出来た。そこに私のこれは持前であるところの、桜のような華やかな心のようなおかげが、今日合楽で現れておるという事になります。
皆さんやっぱりね。皆さんが合楽で頂いておりますようなおかげを、皆さんも頂いてもらわなきゃならんならば、そういう三つの内容が皆さんの信心の中に、なからなければならない。苦しい時困った時は誰でも、一生懸命になりますけれども、平穏である無事である時に、いうならその執念が続くと言う様な信心を、私は梅の花の信心というのじゃないかと思います。
どうぞ。